東京高等裁判所 昭和42年(ラ)261号 決定 1969年4月10日
主文
本件抗告を棄却する。
理由
本件抗告の趣旨は、「原審判を取消し、本件を東京家庭裁判所に差戻すとの裁判を求める。」というのであり、その理由の要旨は、
「原審判の理由とするところは、抗告人の祖父政康の戸籍(除籍。以下除藉も戸籍という)中その父欄における政信の氏が市川でなく斉藤と記載されるに至つた経緯を考えると、明治三一年戸籍は身分登録制度としての戸籍制度を整備したが、戸籍の記載は従来の記載を踏襲して調整したものであるから、本件の場合も戸籍が調整されるに際し斉藤政康が勝手に父市川政信の氏を斉藤に改めたためにこのような記載がなされたのではなく、従前の戸籍編製の原理に従つて調整されたに過ぎない。すなわち、明治以来氏については同戸異姓を許さないとの原則により、家族の氏は戸主の氏を称する建前から戸主の父欄が市川でなく斉藤と記載されたことはけだし当然の帰結である。従つて、抗告人の主張は理由がないというにある。
しかし、斉藤政康が父政信の死後勝手に「市川」を「斉藤」と記載したものであることは市川の氏は徳川時代の延宝七年の頃より名乗り市川勝重の代に江戸から四国の松山に移り、その子市川政信は通称を兵衛又は秀斉と号し、郷土史にも儒者又は勤皇の士市川鉄挙として名を遺すほどの人物であつたから政信は生存中市川の姓を名乗つていたことは容易に推測されるところである。それ故、市川政信は安政三年一一月四日七〇歳にして死亡したが斉藤の三男政芳すなわち抗告人の父が明治三〇年七月一九日復姓願によつて斉藤から市川に復姓したことは添付の除籍謄本に徴して明らかであるから市川政信の死後遅くとも明治三一年戸籍法制定以前に斉藤政康が勝手に市川を斉藤に改姓したことが推測される。しかるに、原審判は、明治初年頃の斉藤政康の戸籍中に尊属たる市川政信が斉藤政信と記載されてあつた事実を肯認させる資料が存在しないにも拘らず、誤つた事実を肯定し、明治三一年の戸籍編製の際に従来の記載を調整したものと断定したのは証拠に基づかない違法な判断である。
なお、戸籍法第一一三条には、「戸籍の記載が法律上許されないものであること又はその記載に錯誤若しくは遺漏があることを発見した場合には、利害関係人は、家庭裁判所の許可を得て、戸籍の訂正を申請することができる。」と規定されているところ、仮りに同条によつて訂正をなし得る場合を、訂正事項が軽微で親族相続法上の身分関係に影響を及ぼさない場合に限定すべきものとしても、本件の場合は単に斉藤政康の戸籍中、戸主の父欄における政信の氏の「斉藤」を「市川」に訂正するだけの軽微の事項であつて、親族相続法上の身分関係に重要な影響を及ぼすものでない。
また、原審判は、抗告人の父政芳は前記復姓の方法により先祖の由緒深い姓を回復しているから抗告人の感情利益は充たされているのに対し、同一祖先の戸籍に利害を有する利害関係人斉藤オシゲがその祖先の氏(姓)の戸籍訂正に反対しているから同人の感情利益を無視できないと判示しているけれども、同一祖先である市川政信が郷土史上においてその名が遺されている人物であつてみれば、斉藤政信と架空の姓になつていることこそ祖先を冒涜するものであり、伝統的国民感情に反するものである。右利害関係人は親族相続法上の身分関係になんら影響がないのに感情的に反対しているに過ぎない。」
というのである。
よつて按ずるに、本件記録によれば抗告人主張の関係者の身分関係は次のとおりで、その戸籍は(1)政信の長男斉藤政康(文政八年七月二八日生。家督相続年月日及び相続原因不明。明治四一年一月一三日死亡)、(2)政康の長男斉藤政介(弘化四年一〇月七日生。家督相続年月日不明。相続原因は父政康の隠居らしい。明治二三年七月二四日分籍)、(3)政介の長男斉藤吉政(明治九年六月一五日生。明治二〇年三月三一日家督相続。相続原因は父政介の隠居らしい)、(4)吉政の祖父斉藤政康(明治三五年四月二〇日孫吉政の死亡により家督相続)、(5)政康の長男斉藤政介(明治三五年六月一六日父政康の隠居により家督相続、同月一三日廃家の上政康方に入家したもの)、(6)政介の養子斉藤勝政(明治四一年二三日政介の養子となり、明治四二年一〇月九日政介の死亡により家督相続)同月一勝政(明治三二年八月二四日生。政康の三男政芳の二男にして明治四一年四月二三日政介の養子となり、明治四二年一〇月九日政介の死亡により家督相続)の順に編製されていること、抗告人の実父政芳(万延元年一一月七日生)は、斉藤政康の三男にして、明治九年八月一四日分籍により戸主となり、明治三〇年七月一九日斉藤から市川に復姓したものであつて、その二男が勝政、三男が抗告人であること、利害関係人斉藤オシゲは勝政の妻であること、以上の事実が認められる。
なお、本件においては、前記関連戸籍中、(1)、(2)は散佚又は滅失しているため遡つて問題点を明らかにすることはできないが、(3)の戸籍(明治一九年改正後の戸籍)には、戸主の父欄の該当者については名のみ記載されて姓の記載がなく、(4)の戸籍に至つて始めて斉藤の姓が冠せられている事実が記録上認められる。
ところで、我国における全国統一戸籍法は明治四年四月四日大政官布告第一七〇号による戸籍(以下、壬申戸籍法といい、同戸籍法に基づき編製された戸籍を壬申戸籍という)をもつて嚆失とし、その以前においては、百姓、町人等後の平民に関する宗門御改帳及び別帳、京都府における戸籍仕法等については暫く措き、士族については戸籍がなく、藩士は各藩それぞれの仕法で把捉されているにすぎなかつた。なお、壬申戸籍法は明治一九年九月内務省令第一九号をもつて一部改正されたが、民法施行に伴い明治三一年六月法律第一二号をもつて右戸籍法が廃止されていわゆる明治三一年の戸籍法が制定され、それが大正三年三月法律第二六号をもつて廃止されていわゆる旧戸籍法が制定され、今次大戦終了後現行憲法施行に基づく親族相続法の改正に伴い昭和二二年一二月法律第二二四号をもつて旧戸籍法が改正されて現行戸籍法が制定されるに至つたものである。
しかるところ、士族については従来から苗字(姓)があり、平民については明治三年九月大政官布告第六〇八号をもつて苗字を称することが許されたので、壬申戸籍編製の際には各戸主はそれぞれ従前の苗字を姓として届出たであろうことは推測に難くないところ、明治五年八月大政官布告第二三五号をもつて士族、平民とも苗字の変更は復姓を除き同姓名者があるため余儀ない場合のほか禁ぜられ、さらに明治八年二月大政官布告第二二号をもつて平民も必ず苗字を称すべきことを命ぜられ、ついで明治九年一月大政官布告第五号をもつて改姓は復姓のほか絶対に許さないこととしたものであつて、その制度が明治三一年の戸籍法に踏襲されたことは同法第一六四条からも窺われる。なお、明治一二年、時の政府が明治五年第二三五号、同九年第五号の大政官布告を廃止し、地方官の許可を得て改姓をなし得るよう改正議案を元老院に提出したが、立法化されなかつた事実もある。
以上の事実関係に基づいて考察するに、松山藩(抗告人の主張によれば市川政信は松山藩の儒者)の市川政信に関する文書はないけれども、政康は壬申戸籍編製の際その姓を斉藤として届出たものであることは推測に難くないので、政康が改姓したとすれば、それは遅くとも壬申戸籍編製前のことに属するものとみるのが相当である。しかして、右改姓が政信の死亡後になされたとしても、壬申戸籍編製の際の取扱として、同一戸籍内での父子異姓は認められなかつたのであるから、その趣旨からすれば、政康が創設した「斉藤」なる氏の効果は、戸籍に表示されている限りにおいては、死亡した父政信にも及んでいるものと解すべきである。その後(4)の戸籍に至つて戸籍の記載が詳細となり、続柄欄に父の名だけでなく氏も記載されるようになつたが、右の理由により政康の父として政信の氏名を記載するに当り、「斉藤政信」としたものと推認される。
以上説示の諸般の事実によれば、抗告人主張の戸籍に政信の姓が斉藤と登録されたのは、政康が斉藤姓を創設し、壬申戸籍編製の際にその姓を斉藤として届出たことの当然の帰結であると考えられるのであつて、それが法律上許されないものといいえないことは勿論、錯誤であると断定することもできない。のみならず、抗告人の父政芳は市川に復姓してその感情利益は充たされているものというべく、また、同一祖先の戸籍に利害を有する利害関係人斉藤オシゲはその戸籍訂正に反対の意を表明しているので同人の感情を無視することもできない。
されば抗告人の本件戸籍訂正の申立は失当で、これを却下した原審判にはなんらの違法もない。よつて本件申立を棄却することとし、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 石田実 裁判官 川添万夫 裁判官 右田堯雄)